情報過多の弊害 ―「規準を見つけられないこと」についての覚え書き

私が常に何事にも対して抱いている、「自分がしていることは『許されること』『容認されること』なんだろうか、全否定すべき『最悪の思考』に及んではいないだろうか」という漠然とした、しかしキリがなく、どうしようもないほど深い不安。その根元がどこにあるのか、何故不安が生じるのかについて自分なりに一つの結論に辿り着いたので、その旨の覚え書きを記しておくことにする。

尚、自分自身のための文書なので全体的に無駄に大仰な物言いになっている。他人が読む場合はくれぐれも注意されたし(何に)。あと、文句を付けたり批評したりはお好きなように。

私の「不安」

私が抱いている「不安」をもう少し詳しく記述。ただしこの節は主題とは関係ないので、読み飛ばして構わない。

「出来事」を上のように「人」「原因」「罪」の三つの要素に分けて考えてみると、この例では、前者と後者では一般的な評価が全く違うのに気付く。

前者は、マルクスの「考え方」自体は全否定されるものではなく、一つの方法論として存在を容認されるもので、悪いのは「原因」と「結果」であると言われる(勿論、人によっては「考え方」自体も否定の対象にするだろうが)。

しかし前者が存在そのものは容認され得るのに対し、後者は「考え方」からして存在を全否定される場合が多い。というか普通は全否定する。私も全否定する。

結果だけ見るとこの二つの事例は共に「悪」だが、その「考え方」の時点で「悪かそうでないか」が違う。共通しているように見えて、実は原因のレベルではまったく次元の違う話なのだ。

前置きが長くなったが、私が今現在不安を感じているのは、自分がヒトラー(のナチズム)のように「存在からして否定されるべき思考」に辿り着いてしまってはいないか、という点についてなのである。

貫くべきか否か

「結果」や「原因」の善悪が比較的簡単に判別できる(そのときの情勢など、揺るがない「事実」を規準として判別できる)のに対し、「おおもと」――思考そのものの善悪は、自分では判別のしようがない。それ自体が主観的だから、第三者の判断を聞かないと分からないし、しかもその「第三者」でさえ間違いのない「良識」を持っているとは限らない……そのため、どう足掻いても「おおもと」の善悪は判断のしようがない。この「おおもと」が自分自身である場合、それは不安に結びつくかもしれない。それがまさに、私の今の状況である。

自分の「思考そのもの」が悪かどうか不安に感じるのは、「恥の文化」、即ち他人からの評価で物事の善悪を判定する文化の歴史を持つこの日本に生まれ育った以上、あってもおかしくない事だろう。

この不安から逃れる方法は至極単純だ。一神教の文化圏の基本思考に倣って、「自分の考えは間違っていない」として、自分の規準を全ての規準にするだけである。……が、性格的に私にはそれはできないし、あまり良いとも思えない。何故なら、前述のヒトラーの例で彼が「自分が絶対に正しいと信じたために、致命的な過ちを犯してしまった」からだ。自分の思考が確実に破局を導くようなものであるかもしれない(などというのは杞憂だろうが)以上、慎重にならないとヒトラーと同じ轍を踏みかねない……だからこその不安なのだ。

自分の判断の「基準」

ところで、いくら慎重になったとしても、最終的には自分で「その考えを貫くか否か」を決定する必要がある。そのときに最も基本的な規準となるのが、その人自身の中にある「揺るぎない規準」だろう。ちなみにここでは、その「規準」の善悪は問わない。あくまで、とりあえずの「規準点」として考えるということ。

つまり私が感じている不安のおおもとは、「揺るぎない確たる『規準』、即ち『自分』が無いこと」なのである(このようにまとめると何とも俗っぽいが、結局はこういうフレーズに落ち着くのだ……)

与えられる情報の量と、そこから「規準」を見定めること

その人にとっての「規準」は、その人が大人になる(思考が固まる)までの間にどういった情報を取り込んできたかによって決まる。資本主義が価値観の規準かもしれないし、社会主義が規準かもしれない。ただ、何を規準にするにしても、与えられた情報の中からどれか一つを「規準」として選び取る(あるいは情報を組み合わせて新たな「規準」を作る)のには、大変な苦労を要すると思う。

昔(2〜 30 年前など)は、良くも悪くも、一人の人間が大人になるまでの間に触れる情報量がそう多くなかった。つまり自分にとっての「規準」となり得る選択肢が少なかったため、それぞれを深く吟味することができ、「規準」を見定めることが比較的容易だった――よって、10人いれば8〜 9 人は「貫き通せる『考え方の規準』」を見つけることができた……のではないだろうか。

ところが、現代は情報過多の時代だ。テレビ新聞雑誌に携帯、インターネットともなるとこれまで知ることもできなかった「一般人達の個々の考え方の違い」にさえ触れることができるようになっており、それぞれについて深く吟味しにくい(大人ならそうでもないだろうが、未熟な子供には辛い仕事だ)ため、貫き通せるような「考え方の規準」をなかなか見つけにくいようになってしまっている。莫大な情報の中からただ一つを探し出す運と天性の判断力に恵まれないと、これでは「規準」が見つけられない(にくい)のではないだろうか。

だから、「主体性のない子供」が増えてしまったのではないだろうか――いや、「規準」を見つける圧倒的な力のない人でも「規準」を見つけやすかった時代が過ぎ去って、よりシビアな「規準」の選択眼が必要になり、規準を「見つけられない」――結果、主体性がないままの子が相対的に「増えてきた」のではないだろうか。私にはそう見える。

それ故の、「不安」

最近の若者は何を考えているのかよく分からない……という「得体の知れないものだからこその恐怖」を「大人」は抱きがちだが、こうして考えてみれば、最近の若者が「主体性が無くフラフラして」いて、必要なときに「これはこれ」と断言できない(不安故の責任からの逃避)のも無理もないのではないだろうか。

「規準を見つける力」に長けている人はいるのか、そもそも本当にそんな「違い」があるのか――それは、「規準」を形成する時期に情報過多の世の中を体験している(した)我々の世代が「大人」になってからでないと、明確な結論は出せない。しかし、与えられる情報が増えれば増えるほど「確たる自分」を形成するのが困難になる、というのは事実だと思う。

私には、自分の「規準」に対して自身が持てないこの不安を払拭することが――自分だけの確たる「規準」を見つけることができるのだろうか……今はそれが心配だ。