マイノリティの保身術

B.B.S. からのサルベージ。

異端尋問

地動説をとなえたコペルニクスは、死の間際まで自説の公表を控え、そのまま没した。地動説の正しさを主張したガリレイは、宗教裁判にかけられ、幽閉された。

例えば趣味において自分が少数派に属している(アニオタ、エロゲオタ等)ことを自覚している人は、趣味を隠すとまではいかずとも、初対面の人にそういう話題を振ったりしない。何故なら、マジョリティの人々はマイノリティの考えを常に無視或いは排除しようとするからである。自分の趣味を隠すことは、少数派が世間との摩擦を避けて生きていくための基本的且つ重要なテクニックだ。

少数派の考えは、多数派から見れば当然異端だ。少数派の立場にいながら多数派に向けて異議を申し立てるのは、ガリレイの行動と同じである。そういう輩は須く叩かれ、粛正され、そして消される。

数の論理、強者の歴史

多数決論理では、少数派より多数派が優先される。少数派は「参考」にはされるが、「考慮」は決してされない。極端な話この多数決民主主義社会では、小数派の出した正解よりも多数派の出した誤答のほうが正しいのである。

こう言ってしまうと誤解されそうだが、しかし、考えてみればすぐ判る。この世界では、力の強い者にとっての正義こそが正義なのだ。多数決論理では多数派であることが何よりの力だから、イコール、数は正義である。少数派にとっては非常に辛いが、論理的には何らおかしい点はない。

そもそも、多数決自体が多数派に都合のいい論理だ。少数派が多数決に従うわけがないのだから、多数決に反対する者がまず消された。歴史の闇に葬り去られたのだ。今ある歴史は、全て強者=多数派によって書き記されたものである。多数派にとって本当に都合の悪い歴史は、例えば帝國憲法やソ連のように、悪しき歴史としてしか記されていない。

トロルという空想上の怪物は、語源を辿れば、西洋のとある地方での土着宗教の巫女だという。敗れた宗教の神は、勝った宗教に悪魔として取り込まれているのだ。歴史は強者によって記されるというのは世の常である。

自覚の足りないマイノリティは消される

理屈の後ろ盾(論理的な正当性)を得たり多数派の一員(人だけでなく、マスメディアであったりもする)から支持を受けたりしたとき、人は、少数派であっても自分は正しいと確信できる。

だが、「自分は少数派だが、論理的に正しいのだから、多数派と対等に戦える」などと勘違いするのは大変危険だ。あるいは、自分の属する集合は少数派のはずなのに多数派と勘違いしたりするのも、同様に危険である。

多数決論理の前では、数以外の全ての価値は吹き飛んでしまう。僕が自分自身を「普通の人間」だとどれだけ理詰めで主張しようと、周りの100人が「HTMLの文法ごときに以上執着する異常者」だと言えば、僕は異常者なのだ。論理的な正しさを根拠に自分は勝てると思い込み、あるいは少数派でありながら自分のことを多数派の一員だと思い(自分の考えが多数派=多数決論理の世界での権力者であると勘違いし)、そう振る舞ったせいで周囲の多数派の神経に触れれば、結果は言うまでもない。そこに待つのは、社会的な抹殺だ。

僕のように煙草の煙がどーしても駄目という人は、恐らくは少数派だ。だから、僕の感覚――煙草の煙を吸うだけで頭も喉も痛くなり咳が出て苦しい思いをしなければならないという体質――で喫煙行為を弾劾すれば、言い過ぎだテメェと怒られる。自分自身も知らず知らずのうちに、自分の感覚が普通(多数派)であると錯覚してしまっていたようだ。叩き潰される前にそのことを自覚できた僕は、まだまだ幸せな方だろう。

煙草の話にかかわらず、僕はもっと、自分がマイノリティであることを自覚する必要があるらしい。どれだけ力説しようと、僕達の苦しみは彼らには永遠に分からず、少数と多数がひっくり返ることはないのだから。

生き残るために

マイノリティであることを自覚する――とは言っても、少数派だから無条件に泣き寝入りしようということではない。多数派との間に軋轢をなるべく生まないようにしてこちらの主張を受け入れてもらう、そういう腰の低い姿勢で挑む必要がある、そうして少しでも抵抗してみよう、ということだ。

これではあまりに弱気すぎると仰有る向きもあるだろう。しかし、少数派の考えというのはこの多数決民主主義社会では無視・排除されるのが当然であり、考慮してもらえさえすれば上出来で、受け入れてもらえればそれこそ奇蹟のようなものなのだ。悲しいことだが、これは覆しようのない事実である。

この多数決民主主義社会では、数こそが力。多数派が絶対的に強く、少数派は常に間違いであり異端であり弱者なのだ。いくら正当で理にかなっていても、少数派は所詮少数派。そこのところの立場を考慮せずに大きな声で喋れば、アッという間に潰される。煙草の話もそうだし、 HTML の話もそう。少数派を尊重するという考え(福祉)が一般的でないこの世の中では、尊重されることを期待して少数派のくせにデカい口を叩くのは自殺行為なのだ。教会の権力を知りながらも理論の正しさだけを武器に無謀な戦いを挑んだガリレイから、何も学んでいない。

そう。世の中は、多数派のためだけにあるのだから。悲しいかな、せめて潰され殺されないように、ひっそり生きていくしかないんだ。

蛇足:正しいということ

ここではあくまで多数決論理に則って正義を定義したが、現実には、福祉的な正義や論理的な正義もある。しかし往々にして、それらは多数派の正義の前でかき消されてしまっている。まるで、賛成多数であることだけが唯一絶対の正義であるかのように。

尤も、多数派にとって不利益になるからこそ、他の規準の正義は蔑ろにされているわけで。自ら不利益を被ってでも少数派をサポートしてくれるような人が多数派の中に現れない限り、何も変わりはしない。

多数決論理だけが正義の世の中は、少数派にとってあまりに生きにくい。願わくば、多数派の人々にも、多数であるという以外の規準での正しさにも目を向けて欲しいものだ。

  • 所属組織における「常識」に従わない
  • 身体障害者
  • 知的障害者
  • 精神病患者
  • 過剰な「反オウム」への批判

ちょっと昔なら

  • 天皇陛下は神様じゃない
  • お国のため天皇陛下のために死ねるか
  • 戦争反対

世の中には「単に数が多い」と「正しい」の区別がつかない人間が多いらしい。

蛇足2:正常であることと正当であることの違い 2001/7/22の記事より)

正常異常かを決めるのは、道理ではなく数の大小だ。何故ならとは普通であること・広く一般にありふれていることであり、ありふれてさえいなければ、常とは異なるもの――異常なのである。だから HTML やらの文法を遵守することも今現在は異常、正字正仮名も異常、携帯電話を持っていないのも異常、消費税反対も異常、つくる会の教科書も異常、それを採用する学校も異常、極右も極左も異常、田中長野県知事も異常、ライオンヘアーの小泉首相も異常(ちなみに、変人=普通でない人=異常な人)、なのだ。

だが、「正常=正当」「異常=不当」は短絡だ。勿論「正常≠正当」「異常≠不当」というのも同様に短絡である。正常性と正当性とは、まったく別次元の問題なのだ。そこを混同する人が多いのは嘆かわしいことである。

ところで。この二つの価値観を同時に併せ持つ語に、気違いという語がある。精神状態が正常でないこと。狂気。乱心すなわち、異常(=少数派)であるということと論理の筋道が整っていないということ、両方の意味があるのだが、これは、 and 条件なのか or 条件なのか。異常且つ不当異常或いは不当では、少々意味合いが異なってくる。

僕はこれは、異常であることが第一で、不当であればより気違いである、という条件のように思える。どこまで語句を辿っても異常から離れることがないからだ。一方、異常を辿っても不当に直結することはない。

以上より、僕は気違いという語を不当と単純に同義に扱うのは不適切で、むしろ「気違い≒異常」という性質のほうが強い、と思う。しかし確証は持てない。