偽善

偽善行為への嫌悪

偽善とは?

偽善というものを非常に嫌う人間がいます。かくいう自分自身もそうでした。ちなみにここでいう偽善というのは、例えば……電車で老人に席を譲ってそんな優しさを持った自分に満足したり他人から偉い人と思われたいとか、そういう裏のある、形だけの善行を指します。

正義感故に

偽善を嫌う理由は簡単です。自分の名声のために他者を利用するその根性が気にくわない、ええかっこしいなだけの奴が善人であるわけがない、という正義感です。

絶対的な価値基準がない以上どういうものが完全な「善」であるかは判断が難しいですが、前述の「裏のある善行」という判断基準を使えば、この世にある善行は全て偽善と言っていいのかもしれません。「その人が救われるのが自分の望むところ」という理由で行われる善でさえ「自分を満足させるためだけの善行」と考えるなら、完全な「善」はあり得ないという理論だって十分に成り立ちます。

そういう理由で出てくるのが、「正義感からの嫌悪」です。自分は偽善を行いたくない、だからそういう白々しい善行はしない……動機の面でも結果の面でも「完璧な善」を求めるのが、その主張の裏にあるものだと自分は思います。

偽善のジレンマ

自分もそういう考えを持っていたわけで、自分のやっている行動が偽善にしか思えず、ずいぶんと嫌な思いをしていました。何をやってもそれを客観的に見るたびに「偽善である」ようにしか思えず、そのうちに「自分は偽善者だ! 本当はエゴの塊なんだ! こんな俺に感謝の言葉なんかよこさないでくれ! こんな自分勝手で醜い動機でしか何もできない俺には、もっと罵倒の言葉を浴びせるべきなんだ!」なんてことも思うようになっていました。

この時点での自分の考える理想は、「動機が悪だったら、どんな結果であれその行為も悪である。だから動機は善でなければならない。そうであれば、例えその結果が実らなくても、行為自体は尊いものであるから」というものでした。非常に青臭い理論ですが、自分や他者(特に「行動する人」)に清廉潔白を求める性格の人なら、この辺りは皆共通して思っているのではないかと思います。

偽善の否定こそが偽善

「偽善」さえもできないくせに

そんなとき、ある友人から次のような言葉を貰いました。

動機がどんなことであれ、結果的に「その人」が助けられたと感じたなら、それでいいじゃないか。動機が利己的(悪)であっても行為の結果はその人のためになった(善)んだから、行為まで否定することはない

その言葉で、私は自分の器の小ささに気付かされました。それまでの考え方が「青臭い」だけでなく「いかに自己中心的だったか」を……前述の理論、「行動の動機は善でなければならない、結果はどうあれ動機が善であれば、その行為は尊いものである」という考え方がただの自己満足のための理論でしかない、ということを痛感しました。

考えてみればすぐに判ることです。前述の理論を言い直せば、「動機が善なら結果が実らなくても自分は満足、他者は助からなくてもどうでもいい」ということなのですから。「自分のための動機で行われることは偽善」なら、したり顔で偽善行為を否定して自分の理想のためだけに他者を犠牲にすることもいとわない「偽善の否定」こそ、紛れもない偽善です。

悪いのか?

そもそも、「偽善」の一体どこが「悪い」のでしょうか?

他人のために何かやるとき、少しでも「自分のため」な部分(何らかのメリット)があると、ひとはそれを「偽善だ!」と揶揄しますが、それはずいぶんと了見が狭い考え方のように思います

「偽善をされる側」に立って考えてみましょう。さて、自分がなにか他人にしてもらうとき、その「他人」にも得があっちゃいけないんですか? (相手がなにもトクできず)自分だけが得をしないと満足できないんですか? 自分も他人も両方に得があるのはそんなに不愉快ですか? ……はっきり言えば、そのほうがずっと「エゴイスティック」でしょう。

順番を履き違えてないか?

確かに、動機はなるべく「善」に近くあるのが理想的です(こういう部分は自身の人「格」を「高める」とかそういった世界の話になってきますね)。が、それより何より、まず(結果的に)他者を助けることこそが「善行」の第一条件のはずです。偽善だなんだと言ったって、結局の所、善行で損をする人なんていない(助ける側は「精神的に満足できる」、と考えた場合ですが)んだから、やれることはやっといた方がいいでしょう。利己的な理由であろうと形だけであろうと、誰のためにもならないよりは誰かのためになる方がなんぼかマシです。動機の面でも善になるようにするのは、後で考えりゃいいことです。

そういう考え方のもとに、私は日々偽善を行っている次第です。(そしてこの文書もその一端だったりして……)

「偽善」の拡大解釈

ついでに書いとくと、これって別に「ボランティア行為」だけについてだけじゃなく、普通の商行為とか作品制作とかについても言えることなんじゃないかと自分は思ってます。

例えば

  • 「オリンピックは結局『形を変えた戦争』でしかない」
  • 「 B'z は洋楽のパクリだらけ」
  • 「 key の『 Kanon 』や『 AIR 』は下らない美談の塊で、 key のカネ儲けのための道具でしかない」

とかいう考えだって、

  • 「それでも戦争は(一時的にせよ)とまる」
  • 「それでも曲はかっこいい」
  • 「それでもプレイヤーは『感動』をもらえる」

という見方ができるわけだし、

  • 「本当の平和に導くには」
  • 「パクリのない楽曲を作るには」
  • 「金儲けのためではないかどうかを確認するには」

といったことはまた後から考えても十分間に合うことなんじゃないか、みたいな感じで。