「正しい HTML 」 = 「正しい日本語」

以下の文は全て非推奨です。読むことも、いかなる影響を受けることも、推奨しません。

今更な話ではありますが。「正しい HTML 文書」を意識するのは、「正しい日本語を使う」のと同じくらいに当然のことだと思います。でもその「当然」を否定する人が多いのが実状のようで。

「日本語と同じ」とは?

日本語も HTML も同じ

例えば小説を書いたとしましょう。文章に誤字脱字が多ければ読み辛いですし、妙な省略やおかしな文法で書かれていれば「これってマジに文章のつもり?」と思うかもしれません。誰でも、そうならないように推敲しておかしなところを修正し「正しい日本語」にするよう気をつけるのが普通です。

HTML 文書もこれと同じです。 HTML のマーク付けが間違っていれば読み辛いですし、 HTML の文法が間違いまくっていれば「これってマジで Web ページのつもり?」と常識を疑われてもおかしくないはずです。しかし現状では、 HTML の文法的間違いに気を使う人は多くありません。むしろ、正しい HTML 文書を書くべきと主張する方が常識を疑われてしまう(時には罵倒される)なんてことさえあります。

例えば、「正しくない日本語で書かれた面白い小説があるけど、私には読みにくいので誤字脱字くらいは修正して欲しい」と言えば「これは筆者(編集者)が悪いですね」と誰もが納得します。しかし Web ページの場合、「正しくない HTML で書かれた面白いページがあるけど、うちのブラウザでうまく閲覧できないので HTML の間違いくらいは修正して欲しい」と言うと、必ずと言っていいほど「そんなの、正しく表示できないブラウザやそんなものを使っているアンタが悪い。文法なんて糞喰らえだ! ウチと同じ環境で見ろ!」と返されます。何故こうも、同じ人間で矛盾した理論をブチ挙げられるのでしょうか?

文法的なミスがいけない理由

日本語のミスは、読み手自身が「よく分からんけどほんとはこう言いたいんだろう」と推測して補います。でも「読み手が勝手に読み替えてくれるんだからいいや」と滅茶苦茶な文章を書いてはいけないのは当たり前です。 HTML 文書のミスも、賢いブラウザは自動的に「こうだろう」と訂正して表示してくれますが、校正を怠ってはいけないのは道理です。しかし現実には、「日本語には気を遣うけど HTML なんて糞喰らえだねッ!」という人が非常に多いわけです。何故、日本語に気を遣うように HTML にも気を遣えないのでしょうか。

日本語も HTML も、同じ「情報伝達の道具」です。最終的には、文字の使い方や言い回しなんかよりも内容さえ伝わればいいと言えます。しかし道具の使い方がマズいと、人によっては「内容を曲解される」ことだって有り得ます。だからこそ道具の使い方には気を遣う必要があるのです。

正しい日本語でなくても文章は書けますし、正しくない日本語の方が面白い文章になる場合もあります。しかしそれはあくまで例外。普段は正しい日本語を使うのが当然なのです。必要もないのに、正しく書いてもできるのに、わざわざ誤解・曲解されるかもしれないというリスクを犯してまでイリーガルなやり方をしなければならないのは、ただの文章力不足です。自分の力不足を日本語の文法のせいにする人はまさかいませんよね?

「正しくない」ことの問題

結局は自分にも返ってくる

HTML 文書の場合、「道具としての HTML 」はブラウザが解釈して、人間の目には「 HTML 文書という道具で伝えられた文章」が伝わることになります。ということは、上記のような「 HTML 文法なんてどうでもいい」という人は、相手が機械の部分は別にどーでもいいと考えている、とも言えます。しかしこれは、ずいぶんと視野の狭い浅はかな考えです。

正しい日本語で喋られた「スピーチ」は一字一句をそのまま「エッセイ」に転用できますが、滅茶苦茶な日本語で喋られた場合、それを「エッセイ」に転用しようとすると校正するときに泣かされる羽目になり、文章の再利用性が著しく低下します。 HTML 文書にも、「人間がブラウザで目で見る」以外に「目が見えないので音声で聞く」「検索のデータに使う」といった使い方がありますが、間違った文法の HTML 文書は全く再利用できない・できても非常に非効率的な利用しかできません。そういう HTML 文書では、別の使い方(閲覧方法)をしたい人に迷惑がかかるのです。 IE 用と NN 用で別のページを用意したり、 i モード用と PC 用で別のページを利用したり、同じ内容を伝えるためにいらない努力をしなければならないことだって有り得ます。

せっかく公開文書として作るんだから、なるべく再利用しやすいように気を遣ったほうが多くの場合幸せになれるし、労力的にも有利なのは、明らかでしょう。

的外れな批判

以上のことを考えれば、冒頭に挙げたような批判が感情的且つ非論理的ということは自明です。そんなものは「批判」ではなくただの「いちゃもん」です。

正しい HTML を志向する人を W3C 信者と呼んで、 HTML の間違いを指摘されると「 W3C 信者はなんでも盲信しやがる! うぜェよこのダボ!」と言う人もいますが、これは論旨のすり替えです。その人の書いた文章の「論旨」にケチを付けるのなら反論してもおかしくありませんが、「文字の使い方」にケチを付ける人に対し「てめーら文法至上主義者は黙ってろ!」と言うのはただの人格否定です。論理的な反論ができない(反論の余地がない)からといって逃避しているに過ぎません。論旨を外れて自己弁護していると言ってもいいでしょう。そんなのは子供のすることです。

「正しい HTML 」を志向することを的外れな根拠で批判するのはやめて下さい。批判するなら論旨に沿った点でお願いします。

だから、「正しく」

ここまででは「日本語と HTML 」という比較しかしませんでしたが、何も日本語だけではありません。「正しい運転の仕方(車の使い方)」、「正しいペンの使い方」、「正しい配線の仕方」、「正しいプログラムの書き方」、どんな例でも同じです。それらと同じレベルの話で、正しい HTML を書くべきなのです。

確かに、 HTML を取り巻く事情は他の例のそれとは多少異なります。しかしそれは「現状が混乱しているから」でしかなく、本質的には何も変わりません。 HTML を特別視して「 HTML だから軽視してもいい」などとせず、むしろ「根本的な部分」だからこそ最も重要視してしかるべきです。もっと言うなら、気を遣うことが当然であるために改めて意識することさえないというくらいでないといけません。大前提がなってないのでは、何もできない・する資格がないと批判されてもしょうがないのです。大前提を理解した上で敢えて異なったことをするのとは、理論の次元が違うのです。

正しい HTML を書くことにどういう意味があるのか、なぜ正しい HTML を書かなければならないのか、お分かり頂けたでしょうか?

「しなければならないことはない」≠「しなくてもいい」

正しくなければならないことはないが

HTML が正しくなければ何の意味もなさないのかと言われれば、そうとも言い切れません。前述したように、「そうでない場合」も確かにあります。

「小説」という作品は、「言葉」という道具を使ってまず「文章」を作り、その「文章」を 2 次利用してその上で「ストーリー」を描き出すことで作られます。つまり小説の最終目的は「ストーリーを伝えること」であると考えられ、「荒削りだが才能を感じさせるストーリー展開」といった評価があるように「言葉」「文章」がなっていなくても最終目的を果たせる場合もあると言うことができます。

これと同じ理屈で、 HTML を使った Web ページでも、 HTML の文法を蔑ろにしていても最終的になされる「デザイン性」「(人間にとっての)読みやすさ」を高めることは可能なのです。

しかし、だからといって HTML を蔑ろにしていい訳ではありません

その作家がいくらストーリー性に優れていても、文章が拙いと、いつまで経っても低い評価しか受けられません。それは、(作品の本質ではないにしても)重要な要素の一つである「文」を疎かにすることで作品自体の「質が低い」ととられるからです。

信用を落とさないためにも

いくらページの見た目が格好良く機能性に優れていたとしても、土台となる HTML の文法を蔑ろにしているなら、そのページは低品質の粗悪品と見なされても文句は言えないのです。企業ならば製品の品質イコール企業の質ですから、質の悪いものしか作れなければ信用を落としてしまうこともあり得るということを忘れてはいけません。雪印や東海村の放射能漏れが叩かれていたのは、まさに企業(団体)の質が問われていたのです。

クライアントの依頼で無理にページを大量に作らされるのなら「経費節減」のために粗悪品を大量生産するのも致し方ありませんが、粗悪品を作ることが正しいことだと思ってはいけません。また、これは企業だから気をつけろとか個人だから気を遣わなくていいとかそういう話ではありません。ネット上におけるその人個人の信用の問題にもなり得るのです。

粗悪粗悪とうるさいですが、ここでは「詰めの甘い制作物」という程度の意味です。

「当たり前」

HTML は Web ページ製作の基幹技術の一つですから、「正しい HTML 文書である」ことが当然のように要求されます。現在は強力なエラー補正機能を持った(?) IE がブラウザシェアのトップであるおかげで、腐れ HTML でも多くの人はきちんと閲覧できますが、「人間が」「 IE で」閲覧する以外の局面ではすでに多くの不具合が生じています

この問題を解決するため、 W3C は1998年に新しい HTML の仕様「 HTML 4 」を策定し、世界的に勧告しました。 HTML 4 は、最も理想的な文法「 Strict 」・現状から「 Strict 」へ移行する間の過渡的な文法「 Transitional 」・フレームを使うための文法「 Frameset 」の3つのサブセットの総称で、あくまで過去の腐れ HTML から新標準の「 HTML 4 Strict 」へ移行するためのものです。それらの仕様を実用レベルで実装した IE 4 ・そして IE 5 が登場し、シェアがほぼ IE で埋め尽くされて、もう 2 年近くにもなります。より仕様に近い実装をした Netscape 6 もリリースされ、今や、移行を否定する方が時代にそぐわないようになっているのです。むしろ、 2 年も移行可能な期間があったのだから、移行していない方がおかしいとさえ言えるのではないでしょうか。

「当然」をブラウザの実装ミスなどの理由で「当然」として行えなかった時代と違い、「当然」を「当然」として実現できるようになっている今、移行を否定するのはただの怠惰と不勉強でしかないと言っても過言ではないでしょう。 HTML の文法を守ることで生じるデメリットなど高が知れていますし、代替手段はいくらでも用意されています。――そもそも既に Mosaic や Lynx を平気で切り捨てているのだから、 NN 4.x を「切り捨て」られないはずがないです。

悪いこたぁ言いません。とりあえず HTML の文法くらいは遵守しときましょう

余談。私は別に、「正しい HTML 文書を書けない奴は人間性がなってない」とか一括りにして否定するつもりはありません。「正しいものがどういうものか知らないだけ」、「知っている人が身近にいなかったがために間違って憶えてしまっているだけ」というのは悪ではない(望ましくはありませんが)、というのが私の考えです。ただ、間違った知識を根拠に他人を罵倒するのはよろしくない、と言いたいだけのことです。

当然、「正しい」を志向する側が無用な罵倒をする事も、私は否定しています。

追記:まとめ (2002/2/2)

今頃になって言及する人がいるとは思ってなかった

とりあえず言えることは、文法的にメタメタな HTML は WWW においてはある意味「問題外」なのであって、自分が書いてるものが「問題外」であることを認識し且つそれで事足りると判断した限り、それはそれでええんとちゃいますか、と。例えて言うなら、文法的にメタメタな日本語で「これが私の主義主張である」と言ったところで誰にも相手にされませんよ、そこを承知の上でなら何をどう書いてもいいんちゃいますか、と。そういうものしか書かずにいて「お前らは俺を無視した」だの「お前らは俺を差別している」だの怒っても無駄でっせ、と。ただそれだけのことなのです。

現実の世界ってそういうもんでしょ?

批判対象にすべきは、ヘンな HTML を教えられた人よりも、むしろ、ヘンな HTML を現在進行形で教えている人です。例えば某大電通の某 U 野教授とか。笑。金を取ってる取ってない、高い安い、資格が有る無い、誰から学んだ、そんなことは関係ない。事実として「加害の拡大」の一翼を担っているんだから、そういう方々には速やかに HTML の勉強をしてもらって、これ以上無知なる加害者を増やさぬよう努めて頂くほかナイです。

全ての人が向上心にあふれてるワケじゃあない。俺らはこれで満足してる、だからこれ以上はキョーミ無い。それが現実なのであって、自然な自浄作用を期待するのは、いささか楽観的すぎると言わざるを得ない。「知ってる人」「それがよいと思った人」がするべきことは、ニヒリズムに陥ることでも個別に無知なる加害者を批判することでもなく、一日でも早くそれ正しい知識が「常識」となるよう地道な布教活動(笑)をすること。あるいは、何も知らなくても理想的なマークアップにしてくれるインテリジェントなかしこい AI を積んだエディタを開発すること。そう僕は考えております。なにせこの話は、全体がそれに統一されなければ意味がありませんから。

全体主義? 社会主義? とんでもない。彼らW3Cがこの先に目指しているのは他でもない、自由主義の基本である「機会平等」の実現なのです。