嫌煙家って、喫煙者からも第三者からも嫌われてたりしますね。何の権利があって喫煙者を弾劾できるのだ、たかが煙草で一体どんな被害を受けるというのか、自意識過剰もいい加減にしろ、こんな下らないことを偏執的にいつまでも言い続けるお前らの方がよっぽど悪質だ
、と。確かに、良識的な人にまで噛み付く非常識な人には問題があります。
でも僕は、こういった弾劾的な文書を書く人の気持ちは凄くよく分かります。嫌煙家として。チャンスがあれば僕も書きたいくらいです。というか、以前掲載していました。今はさすがに引っ込めていますが。
普通の嫌煙家は、発ガン性があるとか、そういう化学的・論理的な理由で「煙草が嫌い」と言ってるわけじゃないんですよね。ただもう、主観的に煙草の煙が駄目。臭いをかいだだけで吐き気がしてくるんです。うちの母は鈴なんかの高音を聞くと頭が痛くなるそうですし、僕は新車のシートの臭いをかぐと必ず車酔いするほど気持ち悪くなりますが、それと同じ要領で。でもそういう主観的な理由じゃ喫煙者は「そんなの我慢しろ、お前の我が儘だ」と突っぱねる。だからそういう反論を封じるために理屈に頼らざるを得ず、しかしそういった様子が「偏執的なまでにグダグダ理屈をこね回している」ように見られてしまう。
煙草が駄目な人がどのくらい辛いのかは多くの喫煙者の方はもうご承知でしょうから、ここでは書きません――と言いたいところですが、何事においても加害者には被害者の気持ちというのは絶対に理解できないものでして。しつこいようですが改めてここに書き表しますと、耐えられないほど辛い、理屈抜きで本当の地獄である、と。これはもう単なる「嫌い」ではなく、精神的苦痛を与える要因として「駄目」なのです。
煙草が駄目な人がいるのは分かっているけど、でもやめることができない、という人はまぁ仕方ありません。でも、ね。深く考えもせずに「みんな喫ってるから俺も〜」みたいにスパスパやって隣で咳き込んでる人の事なんて「うっせぇなぁこいつ」くらいにしか思ってない、そんな人もまだまだいるわけです。そういう人に対しては、怒らずにはおれないのです。嫌煙家としては、もう、主観的にムカつくのです。だから徹底的に批判するのです。
煙草の煙が駄目な人のことを気にしているという人もいるでしょう。そういう人に言うのはこちらも少々気が引けます。でもね。
主観的に嫌いなものを嫌いと言うのに、何か論理的な根拠が必要なんでしょうか。論理的に根拠がないと、主観的な精神被害は「なかったもの」になるんでしょうか。形として被害が顕れないものは、そんなに被害として認めたくないのでしょうか。
離着陸時の携帯電話は飛行機が落ちるから止めてくれ、ダイオキシンに発ガン性があるから野焼きは駄目だ、と物質的な被害を根拠にして言えば誰でも納得してくれるのに、どうして精神的な被害は気のせい呼ばわりされるのでしょう。嫌煙家の数がこれだけいるということから、煙草が精神被害をもたらす原因であるというのは明らかです。「禁煙席」が存在するということは、煙を嫌う人は一人や二人じゃないのです。嫌煙家が弾劾し続けるのは、肉体的に被害がでないと被害と認めない頭の固い人が多すぎるからでもあるのです。
分かった上でどうしようもないと諦めるのと、分かろうともしないのとは、違います。僕が喫煙者に望むことは、自分の喫煙行為が少なくとも嫌煙家には多大な精神的被害を与えているということを認知し――他人に迷惑をかけていることを反省し、そしてできれば喫煙を止めてもらうということです。「批判されるのが鬱陶しいからとりあえず嫌煙家の前では煙草を喫わんとこう」なんて考えるくらいなら、禁煙したフリなんてしないでください。その方がよっぽど憎いです。……いや、やっぱり喫うのはやめてください、煙は辛いので……(ぉ
とりあえず僕にとっては、煙草の煙は他の何よりも耐え難い害毒なんです。
煙草に限ったことではありませんが、「わかりましたごめんなさい。もう反省してるんですから、これ以上弱い者いじめしないでください」なんて言う人の「反省」には全く説得力がありません。本当に反省していて、「弱い者いじめされてる」なんて言い方ができるものでしょうか?
行き過ぎた批判に対しては「それは言いすぎだ」と正面切って批判する権利がちゃんとあります。警官から暴行を受けた容疑者が警官を訴えるように、行き過ぎは批判して当然なのです。しかし「弱い者いじめはやめてよぅ(泣)」なんてのは、真っ当な批判ではなくただ目の前の批判をかわすための逃げ口上でしかありません。行き過ぎた批判を甘んじて受けるわけでもなく、正面切って批判し返すわけでもなく、ただ逃げるだけ――そんな態度では、「反省」だってただ目の前の批判をかわすためだけのものと思われておかしくないです。逃げるだけってことは、マジに反省してないと思われても不思議じゃないのです。言うなれば、「反省の質」を問うているのです。
マジに反省してない人に対しては、さらに批判を続けざるを得ません。だって、反省してないんですから。で、いつまでも批判が続くと外野から「行き過ぎた批判」と言われる。被批判者に情が移ってしまうわけですね。でも批判者にしてみたら、被批判者はいつまでもマジでは反省してくれない――ただ逃げ口上を口にするだけ。だから余計、憤りを感じる。なんで外野が反省しない奴の味方をするんだ、と。そして批判はエスカレート。被批判者はやっぱりいつまでも逃げるだけ。酷い悪循環です。
とりあえず僕の身の回りには、こういった根拠から嫌煙家の行き過ぎた批判を批判する喫煙者は確認できていないのですが。
嫌煙家が批判しているのは何か? 喫煙者の喫煙行為です。喫煙者が批判すべきなのは? 嫌煙家の行き過ぎた批判行為です。しかし、この二つを混同してはいけません。「嫌煙家の行き過ぎた批判行為は問題だ、だから喫煙してもよいのだ! 嫌煙家の批判は行き過ぎだから、煙の害なんて無いのだ!」なんて支離滅裂な反論を口にするようでは、いかんのです。あるいは外野から「お前の受けてる被害なんてたかが知れてるだろうが!」なんて言ってもいかんのです(そもそもそんなの余計なお世話以外の何ものでもありません。嫌煙家にとって、煙草の煙はそれだけで理屈抜きに自分にとって最大の害悪なのですから)。
喫煙行為に関する議論と行き過ぎた批判行為に関する議論は、きっちり分けて論じなければいけません。それを混同するのは、ハナっからまともに議論する気がないということです。あるいは、批判されたのに対する単なる腹いせでしかありません。批判されたから批判し返すのではなく、行き過ぎているから批判する。これは当然のことでしょう?
僕が言いたいのは要するに、批判されて反抗心だけで(あるいは誰かが批判されているのを見て「正義感」だけで)逆ギレするなってことです。
――とここまでつらつらと述べて参りましたが、この文書を公開して以来それなりに時間が経過しまして、僕の考えもずいぶん変わりました。喫煙者が絶えずニコチンの禁断症状に悩まされているということ、自身の体を蝕んでいることを知りながらもその煙草に依存しなければならないということ……喫煙者も或意味では被害者なのですから。罪を憎んで人を憎まずと言いますが、僕ら嫌煙家が憎んでいるのはあくまで、喫煙者ではなく煙草の煙なのです。
だから、考えを改めました。煙草を喫うな、なんてもう言いません。吸ってもいいから、吐くな。出すな。垂れ流すな。(怒)
吸うなら全部、責任持って吸ってください。