Final Fantasy シリーズに代表される最近のゲームには、映画的と評されるものが多い。で、それは双方向性――プレーヤーが参加できる余地が無いから、ゲームではないとも言われる。でも、僕はそれは映画的と言うよりも、むしろ、小説的だと思うのです。そして、小説的ゲームでは、プレーヤーはやはり参加していると思うのです。
具体的には。「選択肢一切無し」つまり「シナリオと絵と音楽を再生するだけ」のノベルゲーム(とすら呼べない)作品、鬼哭街。最初紹介を見たときは、そりゃしょーじきやりすぎだろオイオイゲームの「映画」化もイくところまでイッちまったかこりゃあとか思いましたが、実際 Phantom DVD をやってると、それもアリなのかもな、と思えてくるのです。メッセージスキップとか使いまくって「色んなルートを試す」のが嫌と感じられてしまうようになってきて……いや、まあ、何度も繰り返すのが面倒だからという理由も全くないワケじゃないけど。笑。
例えば、途中で
そう。映画では、自分は主人公になれませんよね。それに対して、多くのゲーム(より正しく言えば、ゲームメディア向けに作られた作品)では視点が主人公にあるので、自分自身が別世界に飛び込んで冒険しているようなドップリ感を味わえる。例えその主役にあらかじめ与えられた名前があっても、ルックスが自分と似ても似つかなくとも、(リアルタイム制のゲームでなければ)
文字だけで構成される「小説」。そこに絵が加わった「漫画(劇画?)」。さらに音楽が加わって、鬼哭街のスタイル(メーカーはストーリーノベルと呼んでいる)。映画に近づいていっているようで、でも実は映画とは根本的に違う、自分の時間で主役の視点を追える作品形態。これもひとつの
読者を物語の世界にドップリ浸からせることのできるような作品を、僕も作ってみたいものです。
――とまぁグダグダ余計なことを書き連ねましたが、そもそも何が言いたかったかと言いますと、 Phantom でエレン以外のエンディングを見る気が全然起こらないのでこのゲームはエレンルート専用の一本道デジタルノベルだと考えてしまってもよかですか? ということで。