Ac+C'04 キックオフイベントレポート

Accessibility+Creativity、Ac+C'04(アックゼロヨン)キックオフイベントに行ってきた。漏れのない詳細はinu-PukiWiki/イベントメモで他の方のイベントレポートをご覧頂くとして、ここでは自分の視点で思ったことをまとめてみる。

総論

前半は「アクセシビリティを利用する立場」=アクセシビリティの高いWebページなり製品なりによってこれまでにない恩恵を得られる人々(平たく言えば障害者)と、それをサポートする枠組みを作る行政・立法に関わる人々の視点からの、アクセシビリティについての話。後半は、「アクセシビリティを提供する立場」=実際に手を動かす人々と、アクセシビリティの高いWebページなり製品を発注する人々の視点からの、アクセシビリティについての話。

自分は世間からW3C信者とかHTML原理主義者とか呼ばれるような「自分は障害者でも何でもないくせに、障害者などのために配慮するべきだという綺麗事を吐く偽善者」という立場の人間だった・であるし、身近なところに「それで恩恵を得る人」がいなかったので、何かする度に、人から貶されることはあっても、人に喜ばれている様を見ることはついぞ無かった。それで、自分の考えややっていることを正しいと信じてはいてもそれに意義を感じられないという悩みを抱えていた。

しかし、障害を持つ人自身や障害者の家族を持つ人の口からアクセシビリティという言葉が出てきうること、弱者保護とかバリアフリーとかそういう言葉とは無縁な世界にいるように思えていた人が実はそういう問題に悩まされていることなどを聞いたことで、これまでしてきた行動そのものの是非はともかくとして、信じていた物は間違ってはいなかったという、ある種の自信を持つことができた。僕の中ではこれが、アックゼロヨンに行って得たもののなかで一番大きな出来事だと思う。

高齢社会とアクセシビリティ

一つの事例として、作曲家の坂本龍一氏が紹介されていた。氏は加齢による視力の低下で、表示文字の小さな携帯電話を全然使えなかった。それが、文字の大きな「老人用携帯電話」を使い始めたことで、i-modeやメールなどを使えるようになったという。「コンピュータのことが分からないからデジタル機器を使えない高齢者」だけではなく、「機器がアクセシブルでないせいでデジタル機器を使えない高齢者」がいるのだということ、デジタルディバイドは世代の違いだけではなくアクセシビリティの低さからも起こりうるのだということを、このエピソードは示している。

氏はこうも述べている。Webページを閲覧するとき、「デザイン重視」のために文字を小さくしているページばかりなので、ブラウザの「文字サイズを一段階上げる」操作を毎回やっているせいでクセになってしまった。それでも文字サイズを大きくできない(IEではフォントサイズをピクセル指定すると文字サイズを変えられなくなる)場合があるのには困る、これはもはや視力が弱い人への差別である、と。

高齢者とは、いわば複数の障害を抱えた障害者だ。高齢社会とは、そんな「障害者」が人口の多数を占める社会である。アクセシビリティに関する問題は、日本においては、「障害者への配慮」「人権の保護」といった「少数派への思いやり」の域を超えて、まさに国家的規模の大問題として目の前に突きつけられていると言っていい。

また、デジタルディバイドによってサービスを享受できないというのは、サービス提供者の側からすれば、デジタルディバイドによってサービス提供の機会を失うということでもある。高齢者の比率が高くなっていくこの国では、高齢者というのも一つの大きな市場だ。その市場を失うことがサービス提供者、つまり企業にとって、どれだけ大きな損失となるか。

これらのことを鑑みるに、サービス提供者の側によるアクセシビリティの向上のための手間は、余計な支出などではなく、むしろ必要な経費だと言える。「アクセシビリティの重視は障害者への配慮、障害者は少数派、少数派への配慮は金にならない、だからアクセシビリティは重視しない」という風なことを口にする前に、このことはよく考えておかなければならないだろう。

Webの潮流とビジネス性

後半一発目は、世界で初めてFireworksの解説を書き、テーブルレイアウトとイメージスライスの伝道師となったアンカーテクノロジー森川氏による、「テーブルレイアウトとイメージスライスの次の時代の技術」としてのCSSの宣伝。

内容的には、失礼ながら、僕の立場から特筆することはない。「アクセシビリティの高さとデザイン性の高さは必ずしも反比例しない」「CSSという形でレイアウト情報を分離することで、更新の手間を大幅に軽減できる」「レイアウト情報を分離することがSEO(サーチエンジンの検索結果で上位に来るようにすること)にも繋がる」などなど、4年以上前から素人の技術ヲタ連中が言ってきていた綺麗事・絵空事を、プロのWeb屋の人が「それで商売になる」と言っている、ということ――つまり「話者の肩書き」こそが、このセッションの一番の意義だろう。

氏はCSS Zen Garden(一つのHTML文書を対象に、多くの人が投稿したいくつものスタイルシートを切り替えて表示することで、CSSの表現力の可能性を探るという趣旨のサイト。CSSを切り替えた例1例2)を見て、CSSの表現力は決してテーブルレイアウトに劣るものではないと確信したことから、CSS派に転向したという。実際、「CSSの表現力は低い」という思い込みが最大のネックとなってCSSの採用をためらわせている例は多い。これは技術ヲタがヘボいCSSしか書けないせいでCSS自体の表現力が不当に低く見られているというテーマで自分も過去に述べてきた。ビジュアルデザインにおいて実績のあるプロの「Webデザイナー」がCSSを採用する例が増えていくことは、その点から言って、大変望ましいことだ。

内容とはあまり関係がない上に、プロ相手に素人があれこれ言うのは筋違いでそんな権利は僕には全くないのだけれども、元々上手くないのか、準備をしていなかったのか、このプレゼンテーションは僕にとっては、見ていて大変不満を感じるものだった。「ロールオーバー」などの「Web制作関係者には分かるけれどもそうでない人には全く分からない」用語についての解説が全くないままに話を進めていたり、「CSSを使いさえすればアクセシビリティが高まる」と誤解してしまうような話し方であったり。何年も前からWeb制作の世界で言われてきたことの総まとめ、および、「Webにページ制作者以外の立場から関わる人々」へのこの話題のお披露目として、もっとうまいプレゼンテーションをするべきだったのではないだろうか、と僕には思えてならない。

JIS X 8341-3とアクセシビリティ

後半二発目は、「Web制作の現場」にいるbAのyuu氏や、JIS X 8341-3(日本において行政レベルで初めて示された、Webコンテンツのアクセシビリティに関する指針)の策定に携わったユーディットの濱田氏、元W3Cメンバーで現在もNAP(Network Accessibility Project)で活動している中根氏、「アクセシブルなWebサイト」を発注したコニカミノルタの岩嶋氏、アクセシビリティの向上を支援するソシオメディアの篠原氏など、モデレータのプロップ・ステーションの「ナミねえ」も入れればアクセシビリティに関わるあらゆる立場の人を集めての、パネルディスカッション。

とは言っても、パネリスト皆が皆だいたいこの業界の動向に詳しい人ばかりなものだから、ダイナミックな意見のぶつかり合いというのはほとんど無かったように思う。せいぜい、yuu氏や篠原氏やアンカーテクノロジーの神森氏などがJIS X 8341-3とそれを利用するWeb制作者について「こんなレベルでWeb制作者に満足されては困る」「このガイドラインさえ満たせばアクセシビリティは十分だ、などと思ったら大間違いだ」「重要なのは場当たり的なテクニックではなくその裏打ちとなる理念への理解」といった感じの苦言を呈していた程度か。

しかし、「パンくずリストをニールセン博士が紹介したからといって盲目的にそれに追従するのは馬鹿だ」みたいな感じのyuu氏の発言は身につまされるものだった。多くの人が従うことでユーザの混乱を少なくするという役目もあるガイドラインの存在と、ガイドラインに盲従せずにより良いナビゲーションの形を模索していくべきという考え方、この二つをどのように折り合いをつけていくかは、自分にとっては頭の痛い問題だ。

現場にいる人達から共通して聞こえるのは、アクセシビリティに優れたWebサイトを作ることはそう難しくないけれど、そのアクセシビリティを高いレベルに保ち続けることは非常に難しいということだった。そういえば、僕自身が過去に頼まれて作った物も、管理を引き継いだ途端にボロボロになっていってしまった(論理マークアップの破壊、ナビゲーションを変にいじられる、など)。アクセシビリティを高めるためのノウハウや、その裏打ちとなる考え方をいかにして継承するかという内容が、JIS X 8341-3には不足している、というのが彼らの指摘だ。

アクセシビリティをいかに高めるかという次元から、アクセシビリティをいかに維持するかという次元に、最先端は既に進んでいる。その一方で、最低限のアクセシビリティすら満足に確保できていないWebサイトや制作者が世にはあふれている。この状況を打破するには、アクセシビリティはもはやネットワークでの情報公開においてのリテラシーの一つと認識して、世間一般へも理解を広めていくしかないだろう。

隙のない配慮に表出するもの

全項の内容にも関係するのだけれども、今回は、プレゼンのスライドのつくりなどの面においてもアクセシビリティに関する各方面の温度差を感じた。JIS X 8341-3を手がけた経済産業省はともかく(それも狙った物かどうかは分からないし……)、総務省と厚労省のスライドは、字が小さいわ色は薄いわ情報詰め込みすぎだわで、かなり前の方の席で見ていたにもかかわらず、読むのに大分苦労した。森川氏のプレゼンテーションにも若干文字が小さめなところがあった。まあ、僕も人のことはあんまり言えないけど、こういうところにまでキッチリ神経が行き届いているかどうかが、アクセシビリティというものへの理解の度合いを示すバロメータになるのではないだろうか。

おわりに

アクセシビリティは理念的にもビジネス的にも理にかなっている、というのが元からの認識であるから、基本的なスタンスは変わらない。ただ、前述したが、それについてより強く自信を持つことはできた。

アクセシビリティを高めるということは、情報の共有の敷居を引き下げる、垣根を取り払うということだ。それは、「知財の共有」を目標のひとつとするオープンソースなソフトウェアの運動とも、どこか重なるところがあるように思える。

森川氏やyuu氏のような能力も実績も信用もない自分には、アクセシビリティを高めることの積極的な啓発はできない。だからせめて、今後とも、自分の関わる件においては可能な限り標準への依拠とアクセシビリティの向上を考慮して、事例を増やすことで、この流れを草の根から補強していきたいと思う。